藪の中   芥川龍之介 著

藪の中 芥川龍之介 著

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檢非違使に問はれたる木樵りの物語

 さやうでございます。

あの死骸しがいを見みつけたのは、わたしに違ちがひございません。

わたしは今朝けさ何時いつもの通とほり、裏山うらやまの杉すぎを伐きりに參まゐりました。

すると山陰やまかげの藪やぶの中なかに、あの死骸しがいがあつたのでございます。

あつた所ところでございますか? それは山科やましなの驛路えきろからは、四五町ちやう程ほど隔へだたつて居をりませう。

竹たけの中なかに痩やせ杉すぎの交まじつた、人氣ひとけのない所ところでございます。

 死骸しがいは縹はなだの水干すゐかんに、都風みやこふうのさび烏帽子ゑばうしをかぶつた儘まま、仰向あをむけに倒たふれて居をりました。

何なにしろ一刀ひとかたなとは申まをすものの、胸むなもとの突つき傷きずでございますから、死骸しがいのまはりの竹たけの落葉おちばは、蘇芳すはうに滲しみたやうでございます。

いえ、血ちはもう流ながれては居をりません。

傷口きずぐちも乾かわいて居をつたやうでございます。

おまけに其處そこには、馬蠅うまばへが一匹ぴき、わたしの足音あしおとも聞きこえないやうに、べつたり食くひついて居をりましたつけ。

 太刀たちか何なにかは見みえなかつたか? いえ、何なにもございません。

唯ただその側そばの杉すぎの根ねがたに、繩なはが一筋ひとすぢ落おちて居をりました。

それから、――さうさう、繩なはの外ほかにも櫛くしが一ひとつございました。

死骸しがいのまはりにあつたものは、この二ふたつぎりでございます。

が、草くさや竹たけの落葉おちばは、一面めんに踏ふみ荒あらされて居をりましたから、きつとあの男をとこは殺ころされる前まへに、餘程よほど手痛ていたい働はたらきでも致いたしたのに違ちがひございません。

何なに、馬うまはゐなかつたか? あそこは一體たい馬うまなぞには、はひれない所ところでございます。

何なにしろ馬うまの通かよふ路みちとは、藪やぶ一ひとつ隔へだたつて居をりますから。

檢非違使に問はれたる旅法師の物語

 あの死骸しがいの男をとこには、確たしかに昨日きのふ遇あつて居をります。

昨日きのふの、――さあ、午頃ひるごろでございませう。

場所ばしよは關山せきやまから山科やましなへ、參まゐらうと云いふ途中とちうでございます。

あの男をとこは馬うまに乘のつた女をんなと一しよに、關山せきやまの方はうへ歩あるいて參まゐりました。

女をんなは牟子むしを垂たれて居をりましたから、顏かほはわたしにはわかりません。

見みえたのは唯ただ萩重はぎがさねらしい、衣きぬの色いろばかりでございます。

馬うまは月毛つきげの、――確たしか法師髮ほふしがみの馬うまのやうでございました。

丈たけでございますか? 丈たけは四寸よきもございましたか? ――何なにしろ沙門しやもんの事ことでございますから、その邊へんははつきり存ぞんじません。

男をとこは、――いえ、太刀たちも帶おびて居をれば、弓矢ゆみやも携たづさへて居をりました。

殊ことに黒くろい塗ぬり箙えびらへ、二十あまり征矢そやをさしたのは、唯今ただいまでもはつきり覺おぼえて居をります。

 あの男をとこがかやうになろうとは、夢ゆめにも思おもはずに居をりましたが、まことに人間にんげんの命いのちなぞは、如露亦如電によろやくによでんに違ちがひございません。

やれやれ、何なんとも申まをしやうのない、氣きの毒どくな事ことを致いたしました。

檢非違使に問はれたる放免の物語

 わたしが搦からめ取とつた男をとこでございますか? これは確たしかに多襄丸たじやうまると云いふ、名高なだかい盜人ぬすびとでございます。

尤もつともわたしが搦からめ取とつた時ときには、馬うまから落おちたのでございませう、粟田口あはだぐちの石橋いしばしの上うへに、うんうん呻うなつて居をりました。

時刻じこくでございますか? 時刻じこくは昨夜さくやの初更しよかう頃ごろでございます。

何時いつぞやわたしが捉とらへ損そんじた時ときにも、やはりこの紺こんの水干すいかんに、打出うちだしの太刀たちを佩はいて居をりました。

唯今ただいまはその外ほかにも御覽ごらんの通とほり、弓矢ゆみやの類るゐさへ携たずさへて居をります。

さやうでございますか? あの死骸しがいの男をとこが持もつてゐたのも、――では人殺ひとごろしを働はたらいたのは、この多襄丸たじやうまるに違ちがひございません。

革かはを卷まいた弓ゆみ、黒塗くろぬりの箙えびら、鷹たかの羽はの征矢そやが十七本ほん、――これは皆みな、あの男をとこが持もつてゐたものでございませう。

はい、馬うまも仰有おつしやる通とほり、法師髮ほふしがみの月毛つきげでございます。

その畜生ちくしやうに落おとされるとは、何なにかの因縁いんえんに違ちがひございません。

それは石橋いしばしの少すこし先さきに、長ながい端綱はづなを引ひいた儘まま、路みちばたの青芒あをすすきを食くつて居をりました。

 この多襄丸たじやうまると云いふやつは、洛中らくちうに徘徊はいくわいする盜人ぬすびとの中なかでも、女好をんなずきのやつでございます。

昨年さくねんの秋あき鳥部寺とりべでらの賓頭盧びんづるの後うしろの山やまに、物詣ものまうでに來きたらしい女房にようぼうが一人ひとり、女めの童わらはと一しよに殺ころされてゐたのは、こいつの仕業しわざだとか申まをして居をりました。

その月毛つきげに乘のつてゐた女をんなも、こいつがあの男をとこを殺ころしたとなれば、何處どこへどうしたかわかりません。

差出さしでがましうございますが、それも御詮議ごせんぎ下くださいまし。

檢非違使に問はれたる媼の物語

 はい、あの死骸しがいは手前てまへの娘むすめが、片附かたづいた男をとこでございます。

が、都みやこのものではございません。

若狹わかさの國府こくふの侍さむらひでございます。

名なは金澤かなざはの武弘たけひろ、年としは二十六歳さいでございました。

いえ、優やさしい氣立きだてでございますから、遺恨ゐこんなぞ受うける筈はずはございません。

 娘むすめでございますか? 娘むすめの名なは眞砂まさご、年としは十九歳さいでございます。

これは男をとこにも劣おとらぬ位くらゐ勝氣かちきの女をんなでございますが、まだ一度ども武弘たけひろの外ほかには、男をとこを持もつた事ことはございません。

顏かほは色いろの淺黒あさぐろい、左ひだりの眼尻めじりに黒子ほくろのある、小ちひさい瓜實顏うりざねがほでございます。

 武弘たけひろは昨日きのふ娘むすめと一しよに、若狹わかさへ立たつたのでございますが、こんな事ことになりますとは、何なんと云いふ因果いんぐわでございませう。

しかし娘むすめはどうなりましたやら、壻むこの事ことはあきらめましても、これだけは心配しんぱいでなりません。

どうかこの姥うばが一生しやうのお願ねがひでございますから、たとひ草木くさきを分わけましても、娘むすめの行方ゆくへをお尋たづね下くださいまし。

何なんに致いたせ憎にくいのは、その多襄丸たじやうまるとか何なんとか申まをす、盜人ぬすびとのやつでございます。

壻むこばかりか、娘むすめまでも、.........(跡あとは泣なき入いりて言葉ことばなし。

    ―――――――――――――

多襄丸の白状

 あの男をとこを殺ころしたのはわたしです。

しかし女をんなは殺ころしはしません。

では何處どこへ行いつたのか? それはわたしにもわからないのです。

まあ、お待まちなさい。

いくら拷問がうもんにかけられても、知しらない事ことは申まをされますまい。

その上うへわたしもかうなれば、卑怯ひけふな隱かくし立だてはしないつもりです。

 わたしは昨日きのふの午ひる少すこし過すぎ、あの夫婦ふうふに出會であひました。

その時とき風かぜの吹ふいた拍子ひやうしに、牟子むしの垂絹たれぎぬが上あがつたものですから、ちらりと女をんなの顏かほが見みえたのです。

ちらりと、――見みえたと思おもふ瞬間しゆんかんには、もう見みえなくなつたのですが、一ひとつにはその爲ためもあつたのでせう、わたしにはあの女をんなの顏かほが、女菩薩によぼさつのやうに見みえたのです。

わたしはその咄嗟とつさの間あひだに、たとひ男をとこは殺ころしても、女をんなは奪うばはうと決心けつしんしました。

 何なに、男をとこを殺ころすなぞは、あなた方がたの思おもつてゐるやうに、大たいした事ことではありません。

どうせ女をんなを奪うばふとなれば、必かならず、男をとこは殺ころされるのです。

唯ただわたしは殺ころす時ときに、腰こしの太刀たちを使つかふのですが、あなた方がたは太刀たちを使つかはない、唯ただ權力けんりよくで殺ころす、金かねで殺ころす、どうかするとお爲ためごかしの言葉ことばだけでも殺ころすでせう。

成程なるほど血ちは流ながれない、男をとこは立派りつぱに生いきてゐる、――しかしそれでも殺ころしたのです。

罪つみの深ふかさを考かんがへて見みれば、あなた方がたが惡わるいか、わたしが惡わるいか、どちらが惡わるいかわかりません。

(皮肉ひにくなる微笑びせう)

 しかし男をとこを殺ころさずとも、女をんなを奪うばふ事ことが出來できれば、別べつに不足ふそくはない譯わけです。

いや、その時ときの心こころもちでは、出來できるだけ男をとこを殺ころさずに、女をんなを奪うばはうと決心けつしんしたのです。

が、あの山科やましなの驛路えきろでは、とてもそんな事ことは出來できません。

そこでわたしは山やまの中なかへ、あの夫婦ふうふをつれこむ工夫くふうをしました。

 これも造作ざうさはありません。

わたしはあの夫婦ふうふと途みちづれになると、向むかうの山やまには古塚ふるづかがある、その古塚ふるづかを發あばいて見みたら、鏡かがみや太刀たちが澤山たくさん出でた、わたしは誰だれも知しらないやうに、山やまの陰かげの藪やぶの中なかへ、さう云いふ物ものを埋うづめてある、もし望のぞみ手てがあるならば、どれでも安やすい値ねに賣うりり渡わたしたい、――と云いふ話はなしをしたのです。

男をとこは何時いつかわたしの話はなしに、だんだん心こころを動うごかし初はじめました。

それから、――どうです、慾よくと云いふものは、恐おそろしいではありませんか? それから半時はんときもたたない内うちに、あの夫婦ふうふはわたしと一しよに、山路やまぢへ馬うまを向むけてゐたのです。

 わたしは藪やぶの前まへへ來くると、寶たからはこの中なかに埋うづめてある、見みに來きてくれと云いひました。

男をとこは慾よくに渇かわいてゐますから、異存いぞんのある筈はずはありません。

が、女をんなは馬うまも下おりずに、待まつていると云いふのです。

又またあの藪やぶの茂しげつてゐるのを見みては、さう云いふのも無理むりはありますまい。

わたしはこれも實じつを云いへば、思おもふ壺つぼにはまつたのですから、女をんな一人ひとりを殘のこした儘まま、男をとこと藪やぶの中なかへはひりました。

 藪やぶは少時しばらくの間あひだは竹たけばかりです。

が、半町はんちやう程ほど行いつた所ところに、やや開ひらいた杉すぎむらがある、――わたしの仕事しごとを仕遂しとぐるのには、これ程ほど都合つがふの好よい場所ばしよはありません。

わたしは藪やぶを押おし分わけながら、寶たからは杉すぎの下もとに埋うづめてあると、尤もつともらしい※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそをつきました。

男をとこはわたしにさう云いはれると、もう痩やせ杉すぎが透すいて見みえる方はうへ、一生しやう懸命けんめいに進すすんで行ゆきます。

その内うちに竹たけが疎まばらになると、何本なんぼんも杉すぎが竝ならんでゐる、――わたしは其處そこへ來くるが早はやいか、いきなり相手あひてを組くみ伏ふせました。

男をとこも太刀たちを佩はいてゐるだけに、力ちからは相當さうたうにあつたやうですが、不意ふいを打うたれてはたまりません。

忽たちまち一本ぽんの杉すぎの根ねがたへ、括くくりつけられてしまひました。

繩なはですか? 繩なはは盜人ぬすびとの難有ありがたさに、何時いつ塀へいを越こえるかわかりませんから、ちやんと腰こしにつけてゐたのです。

勿論もちろん聲こゑを出ださせない爲ためにも、竹たけの落葉おちばを頬張ほほばらせれば、外ほかに面倒めんだうはありません。

 わたしは男をとこを片附かたづけてしまふと、今度こんどは又また女をんなの所ところへ、男をとこが急病きふびやうを起おこしたらしいから、見みに來きてくれと云いひに行ゆきました。

これも圖星づぼしに當あたつたのは、申まをし上あげるまでもありますまい。

女をんなは市女笠いちめがさを脱ぬいだ儘まま、わたしに手てをとられながら、藪やぶの奧おくへはひつて來きました。

所ところが其處そこへ來きて見みると、男をとこは杉すぎの根ねに縛しばられてゐる、――女をんなはそれを一目ひとめ見みるなり、何時いつの間まに懷ふところから出だしてゐたか、きらりと小刀さすがを引ひき拔ぬきました。

わたしはまだ今いままでに、あの位くらゐ氣性きしやうの烈はげしい女をんなは、一人ひとりも見みた事ことがありません。

もしその時ときでも油斷ゆだんしてゐたらば、一突ひとつきに脾腹ひばらを突つかれたでせう。

いや、それは身みを躱かはした所ところが、無む二無む三に斬きり立たてられる内うちには、どんな怪我けがも仕兼しかねなかつたのです。

が、わたしも多襄丸たじやうまるですから、どうにかかうにか太刀たちも拔ぬかずに、とうとう小刀さすがを打うち落おとしました。

いくら氣きの勝かつた女をんなでも、得物えものがなければ仕方しかたがありません。

わたしはとうとう思おもひ通どほり、男をとこの命いのちは取とらずとも、女をんなを手てに入いれる事ことは出來できたのです。

 男をとこの命いのちは取とらずとも、――さうです。

わたしはその上うへにも、男をとこを殺ころすつもりはなかつたのです。

所ところが泣なき伏ふした女をんなを後あとに、藪やぶの外そとへ逃にげようとすると、女をんなは突然とつぜんわたしの腕うでへ、氣違きちがひのやうに縋すがりつきました。

しかも切きれ切ぎれに叫さけぶのを聞きけば、あなたが死しぬか夫をつとが死しぬか、どちらか一人ひとり死しんでくれ、二人ふたりの男をとこに恥はぢを見みせるのは、死しぬよりもつらいと云いふのです。

いや、その内うちどちらにしろ、生いき殘のこつた男をとこにつれ添そひたい、――さうも喘あへぎ喘あへぎ云いふのです。

わたしはその時とき猛然まうぜんと、男をとこを殺ころしたい氣きになりました。

(陰鬱いんうつなる興奮こうふん)

 こんな事ことを申まをし上あげると、きつとわたしはあなた方がたより殘酷ざんこくな人間にんげんに見みえるでせう。

しかしそれはあなた方がたが、あの女をんなの顏かほを見みないからです。

殊ことにその一瞬間しゆんかんの、燃もえるやうな瞳ひとみを見みないからです。

わたしは女をんなと眼めを合あはせた時とき、たとひ神鳴かみなりに打うち殺ころされても、この女をんなを妻つまにしたいと思おもひました。

妻つまにしたい、――わたしの念頭ねんとうにあつたのは、唯ただかう云いふ一事じだけです。

これはあなた方がたの思おもふやうに、卑いやしい色慾しきよくではありません。

もしその時とき色慾しきよくの外ほかに、何なにも望のぞみがなかつたとすれば、わたしは女をんなを蹴倒けたふしても、きつと逃にげてしまつたでせう。

男をとこもさうすればわたしの太刀たちに、血ちを塗ぬる事ことにはならなかつたのです。

が、薄暗うすぐらい藪やぶの中なかに、ぢつと女をんなの顏かほを見みた刹那せつな、わたしは男をとこを殺ころさない限かぎり、此處ここは去さるまいと覺悟かくごしました。

 しかし男をとこを殺ころすにしても、卑怯ひけふな殺ころし方かたはしたくありません。

わたしは男をとこの繩なはを解といた上うへ、太刀打たちうちをしろと云いひました。

(杉すぎの根ねがたに落おちてゐたのは、その時とき捨すて忘れた繩なはなのです。

)男をとこは血相けつそうを變かへた儘まま、太ふとい太刀たちを引ひき拔ぬきました。

と思おもふと口くちも利きかずに、憤然ふんぜんとわたしへ飛とびかかりました。

――その太刀打たちうちがどうなつたかは、申まをし上あげるまでもありますまい。

わたしの太刀たちは二十三合がふ目めに、相手あひての胸むねを貫つらぬきました。

二十三合がふ目めに、――どうかそれを忘わすれずに下ください。

わたしは今いまでもこの事ことだけは、感心かんしんだと思おもつてゐるのです。

わたしと二十合がふ斬きり結むすんだものは、天下てんかにあの男をとこ一人ひとりだけですから。

(快活くわいくわつなる微笑びせう)

 わたしは男をとこが倒たふれると同時どうじに、血ちに染そまつた刀かたなを下さげたなり、女をんなの方ほうを振ふり返かへりました。

すると、――どうです、あの女をんなは何處どこにもゐないではありませんか? わたしは女をんながどちらへ逃にげたか、杉すぎむらの間あいだを探さがして見みました。

が、竹たけの落葉おちばの上うへには、それらしい跡あとも殘のこつてゐません。

又また耳みみを澄すませて見みても、聞きこえるのは唯ただ男をとこの喉のどに、斷末魔だんまつまの音おとがするだけです。

 事ことによるとあの女をんなは、わたしが太刀打たちうちを始はじめるが早はやいか、人ひとの助たすけでも呼よぶ爲ために、藪やぶをくぐつて逃にげたのかも知しれない。

――わたしはさう考かんがへると、今度こんどはわたしの命いのちですから、太刀たちや弓矢ゆみやを奪うばつたなり、すぐに又またもとの山路やまぢへ出でました。

其處そこにはまだ女をんなの馬うまが、靜しづかに草くさを食くつてゐます。

その後ごの事ことは申まをし上あげるだけ、無用むようの口數くちかずに過すぎますまい。

唯ただ、都みやこへはいる前まへに、太刀たちだけはもう手放てばなしてゐました。

――わたしの白状はくじやうはこれだけです。

どうせ一度どは樗あふちの梢こずゑに、懸かける首くびと思おもつてゐますから、どうか極刑ごくけいに遇あはせて下ください。

(昂然かうぜんたる態度たいど)

清水寺に來れる女の懺悔

 ――その紺こんの水干すゐかんを着きた男をとこは、わたしを手てごめにしてしまふと、縛しばられた夫をつとを眺ながめながら、嘲あざけるやうに笑わらひました。

夫をつとはどんなに無念むねんだつたでせう。

が、いくら身悶みもだえをしても、體中からだぢうにかかつた繩目なわめは、一層そうひしひしと食くひ入いるだけです。

わたしは思おもはず夫をつとの側そばへ、轉まろぶやうに走はしり寄よりました。

いえ、走はしり寄よらうとしたのです。

しかし男をとこは咄嗟とつさの間まに、わたしを其處そこへ蹴倒けたふしました。

丁度ちやうどその途端とたんです。

わたしは夫をつとの眼めの中なかに、何なんとも云いひやうのない輝かがやきが、宿やどつてゐるのを覺さとりました。

何なんとも云いひやうのない、――わたしはあの眼めを思おもひ出だすと、今いまでも身震みぶるひが出でずにはゐられません。

口くちさへ一言ひとことも利きけない夫をつとは、その刹那せつなの眼めの中なかに、一切さいの心こころを傳つたへたのです。

しかも其處そこに閃ひらめいてゐたのは、怒いかりでもなければ悲かなしみでもない、――唯ただわたしを蔑さげすんだ、冷つめたい光ひかりだつたではありませんか? わたしは男をとこに蹴けられたよりも、その眼めの色いろに打うたれたやうに、我われ知しらず何なにか叫さけんだぎり、とうとう氣きを失うしなつてしまひました。

 その内うちにやつと氣きがついて見みると、あの紺こんの水干すゐかんの男をとこは、もう何處どこかへ行いつてゐました。

跡あとには唯ただ杉すぎの根ねがたに、夫をつとが縛しばられてゐるだけです。

わたしは竹たけの落葉おちばの上うへに、やつと體からだを起おこしたなり、夫をつとの顏かほを見守みまもりました。

が、夫をつとの眼めの色いろは、少すこしもさつきと變かはりません。

やはり冷つめたい蔑さげすみの底そこに、憎にくしみの色いろを見みせてゐるのです。

恥はづかしさ、悲かなしさ、腹立はらだたしさ、――その時ときのわたしの心こころの中うちは、何なんと云いへば好よいかわかりません。

わたしはよろよろ立たち上あがりながら、夫をつとの側そばへ近寄ちかよりました。

「あなた。

もうかうなつた上うへは、あなたと御ご一しよには居をられません。

わたしは一思ひとおもひに死しぬ覺悟かくごです。

しかし、――しかしあなたもお死しになすつて下ください。

あなたはわたしの恥はぢを御覽ごらんになりました。

わたしはこのままあなた一人ひとり、お殘のこし申まをす譯わけには參まゐりません。

 わたしは一生しやう懸命けんめいに、これだけの事ことを云いひました。

それでも夫をつとは忌いまはしさうに、わたしを見みつめてゐるばかりなのです。

わたしは裂さけさうな胸むねを抑おさへながら、夫をつとの太刀たちを探さがしました。

が、あの盜人ぬすびとに奪うばはれたのでせう、太刀たちは勿論もちろん弓矢ゆみやさへも、藪やぶの中なかには見當みあたりません。

しかし幸さいはひ小刀さすがだけは、わたしの足あしもとに落おちてゐるのです。

わたしはその小刀さすがを振ふり上あげると、もう一度ど夫をつとにかう云いひました。

「ではお命いのちを頂いただかせて下ください。

わたしもすぐにお供ともします。

 夫をつとはこの言葉ことばを聞きいた時とき、やつと唇くちびるを動うごかしました。

勿論もちろん口くちには笹ささの落葉おちばが、一ぱいにつまつてゐますから、聲こゑは少すこしも聞きこえません。

が、わたしはそれを見みると、忽たちまちその言葉ことばを覺さとりました。

夫をつとはわたしを蔑さげすんだ儘まま、「殺ころせ」と一言ひとこと云いつたのです。

わたしは殆ほとんど、夢ゆめうつつの内うちに、夫をつとの縹はなだの水干すゐかんの胸むねへ、ずぶりと小刀さすがを刺さし通とほしました。

 わたしは又またこの時ときも、氣きを失うしなつてしまつたのでせう。

やつとあたりを見みまはした時ときには、夫をつとはもう縛しばられた儘まま、とうに息いきが絶たえてゐました。

その蒼あをざめた顏かほの上うへには、竹たけに交まじつた杉すぎむらの空そらから、西日にしびが一ひとすぢ落おちてゐるのです。

わたしは泣なき聲こゑを呑のみながら、死骸しがいの繩なはを解とき捨すてました。

さうして、――さうしてわたしがどうなつたか? それだけはもうわたしには、申まをし上あげる力ちからもありません。

兎とに角かくわたしはどうしても、死しに切きる力ちからがなかつたのです。

小刀さすがを喉のどに突つき立たててたり、山やまの裾すその池いけへ身みを投なげたり、いろいろな事こともして見みましたが、死しに切きれずにかうしてゐる限かぎり、これも自慢じまんにはなりますまい。

(寂さびしき微笑びせう)わたしのやうに腑甲斐ふがひないものは、大慈大悲だいじだいひの觀世音菩薩くわんぜおんぼさつも、お見放みはなしなすつたものかも知しれません。

しかし夫をつとを殺ころしたわたしは、盜人ぬすびとの手てごめに遇あつたわたしは、一體たいどうすれば好よいのでせう? 一體たいわたしは、――わたしは、――(突然とつぜん烈はげしき歔欷すすりなき)

巫女の口を借りたる死靈の物語

 ――盜人ぬすびとは妻つまを手てごめにすると、其處そこへ腰こしを下おろした儘まま、いろいろ妻つまを慰なぐさめ出だした。

おれは勿論もちろん口くちは利きけない。

體からだも杉すぎの根ねに縛しばられてゐる。

が、おれはその間あひだに、何度なんども妻つまへ目めくばせをした。

この男をとこの云いふ事ことを眞まに受うけるな、何なにを云いつても※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそと思おもへ、――おれはそんな意味いみを傳つたへたいと思おもつた。

しかし妻つまは悄然せうぜんと笹ささの落葉おちばに坐すわつたなり、ぢつと膝ひざへ目めをやつてゐる。

それがどうも盜人ぬすびとの言葉ことばに、聞きき入いつてゐるやうに見みえるではないか? おれは妬ねたましさに身悶みもだえをした。

が、盜人ぬすびとはそれからそれへと、巧妙かうめうに話はなしを進すすめてゐる。

一度どでも肌身はだみを汚けがしたとなれば、夫をつととの仲なかも折おり合あふまい。

そんな夫をつとに連つれ添そつてゐるより、自分じぶんの妻つまになる氣きはないか? 自分じぶんはいとしいと思おもへばこそ、大だいそれた眞似まねも働はたらいたのだ、――盜人ぬすびとはとうとう大膽だいたんにも、さう云いふ話はなしさへ持もち出だした。

 盜人ぬすびとにかう云いはれると、妻つまはうつとりと顏かほを擡もたげた。

おれはまだあの時とき程ほど、美うつくしい妻つまは見みた事ことがない。

しかしその美うつくしい妻つまは、現在げんざい縛しばられたおれを前まへに、何なんと盜人ぬすびとに返事へんじをしたか? おれは中有ちううに迷まよつてゐても、妻つまの返事へんじを思おもひ出だす毎ごとに、嗔恚しんいに燃もえなかつたためしはない。

妻つまは確たしかにかう云いつた、――「では何處どこへでもつれて行いつて下ください。

」(長ながき沈默ちんもく)

 妻つまの罪つみはそれだけではない。

それだけならばこの闇やみの中なかに、今程いまほどおれも苦くるしみはしまい。

しかし妻つまは夢ゆめのやうに、盜人ぬすびとに手てをとられながら、藪やぶの外そとへ行ゆかうとすると、忽たちまち顏色がんしよくを失うしなつたなり、杉すぎの根ねのおれを指ゆびさした。

「あの人ひとを殺ころして下ください。

わたしはあの人ひとが生いきてゐては、あなたと一しよにはゐられません。

」――妻つまは氣きが狂くるつたやうに、何度なんどもかう叫さけび立たてた。

「あの人ひとを殺ころして下ください。

」――この言葉ことばは嵐あらしのやうに、今いまでも遠とほい闇やみの底そこへ、まつ逆樣さかさまにおれを吹ふき落おとさうとする。

一度どでもこの位くらゐ憎にくむべき言葉ことばが、人間にんげんの口くちを出でた事ことがあらうか? 一度どでもこの位くらゐ呪のろはしい言葉ことばが、人間にんげんの耳みみに觸ふれた事ことがあらうか? 一度どでもこの位くらゐ、――(突然とつぜん迸ほとばしる如ごとき嘲笑てうせう)その言葉ことばを聞きいた時ときは、盜人ぬすびとさへ色いろを失うしなつてしまつた。

「あの人ひとを殺ころして下ください。

」――妻つまはさう叫さけびながら、盜人ぬすびとの腕うでに縋すがつてゐる。

盜人ぬすびとはぢつと妻つまを見みた儘まま、殺ころすとも殺ころさぬとも返事へんじをしない。

――と思おもふか思おもはない内うちに、妻つまは竹たけの落葉おちばの上うへへ、唯ただ、一蹴ひとけりに蹴倒けたふされた、(再ふたたび、迸ほとばしる如ごとき嘲笑てうせう)盜人ぬすびとは靜しづかに兩腕りやううでを組くむと、おれの姿すがたへ眼めをやつた。

「あの女をんなはどうするつもりだ? 殺ころすか、それとも助たすけてやるか? 返事へんじは唯ただ頷うなづけば好よい。

殺ころすか?」――おれはこの言葉ことばだけでも、盜人ぬすびとの罪つみは赦ゆるしてやりたい。

(再ふたたび、長ながき沈默ちんもく)

 妻つまはおれがためらふ内うちに、何なにか一聲ひとこえ叫ぶが早はやいか、忽たちまち藪やぶの奧おくへ走り出だした。

盜人ぬすびとも咄嗟とつさに飛とびかかつたが、これは袖そでさへ捉とらへなかつたらしい。

おれは唯ただ、幻まぼろしのやうに、さう云いふ景色けしきを眺ながめてゐた。

 盜人ぬすびとは妻つまが逃にげ去さつた後のち、太刀たちや弓矢ゆみやを取とり上あげると、一箇所かしよだけおれの繩なはを切きつた。

「今度こんどはおれの身みの上うへだ。

」――おれは盜人ぬすびとが藪やぶの外そとへ、姿すがたを隱かくしてしまう時ときに、かう呟つぶやいたのを覺おぼえてゐる。

その跡あとは何處どこも靜しづかだつた。

いや、まだ誰だれかの泣なく聲こゑがする。

おれは繩なはを解ときながら、ぢつと耳みみを澄すませて見みた。

が、その聲こゑも氣きがついて見みれば、おれ自身じしんの泣ないてゐる聲こゑだつたではないか? (三度みたび、長ながき沈默ちんもく)

 おれはやつと杉すぎの根ねから、疲つかれ果はてた體からだを起おこした。

おれの前まへには妻つまが落おとした、小刀さすがが一ひとつ光ひかつてゐる。

おれはそれを手てにとると、一突ひとつきにおれの胸むねへ刺さした。

何なにか腥なまぐさい塊かたまりがおれの口くちへこみ上あげて來くる。

が、苦くるしみは少すこしもない。

唯ただ胸むねが冷つめたくなると、一層そうあたりがしんとしてしまつた。

ああ、何なんと云いふ靜しづかさだらう。

この山陰やまかげの藪やぶの空そらには、小鳥ことり一羽は囀さえづりに來こない。

唯ただ杉すぎや竹たけの杪うらに、寂さびしい日影ひかげが漂ただよつてゐる。

日影ひかげが、――それも次第しだいに薄うすれて來くる。

もう杉すぎや竹たけも見みえない。

おれは其處そこに倒たふれた儘まま、深ふかい靜しづかさに包まれてゐる。

 その時とき誰だれか忍しのび足あしに、おれの側そばへ來きたものがある。

おれはそちらを見みようとした。

が、おれのまはりには、何時いつか薄闇うすやみが立たちこめてゐる。

誰たれか、――その誰たれかは見みえない手てに、そつと胸むねの小刀さすがを拔ぬいた。

同時どうじにおれの口くちの中なかには、もう一度ど血潮ちしほが溢あふれて來くる。

おれはそれぎり永久えいきうに、中有ちううの闇やみへ沈しづんでしまつた。

.........

(大正十年十二月作)

底本:「現代日本文學全集 第三〇篇 芥川龍之介集」改造社

   1928(昭和3)年1月9日発行

初出:「新潮」

   1922(大正11)年1月1日

※表題は底本では、「藪やぶの中なか」となっています。

入力:高柳典子

校正:岡山勝美

2012年2月8日作成

2012年3月25日修正

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