不思議な国の話 室生犀星 著

不思議な国の話 室生犀星 著
そのころ私は不思議なこころもちで、毎朝ぼんやりその山を眺めていたのです。
それは私の市街まちから五里ばかり隔った医王山いおうぜんという山です。
春は、いつの間にか紫ぐんだ優しい色でつつまれ、斑まだら牛のように、残雪をところどころに染め、そしていつまでも静かに聳そびえているのです。
その山の前に、戸室とむろというのが一つ聳えていましたが、それよりも一層いっそう紫いろをして、一層静かになって見えました。
「あの山は何て山じゃ。
あの山の奥は何処どこにあるのじゃ。」
そう私は私の姉にたずね、山という不思議な、まだ私たちの見たことのない国に、何かしら私たちに近いものが住んでいるような気がしました。
そう言っても天上の星族になお私たち人類が生息しているというような想像よりも、ずっと親しい問題だったのです。
姉はそんなとき、
「あれはお前、薬草がたくさん生えている山なんですよ。
それで医王山という名前がついているんです。」
「薬草って、どんなもの。」
「どんなものって、姉さんだってすっかり知っているわけじゃないんですけれどね。
あの山の頂いただきに、蒼い池があるそうだよ。
いつのころからあるのか知らないけれど、それは古い、そして青い底をした水の冷たい池があるんですよ。
そこのまわりに、さまざまなお薬になる草があるんで、みんな昔は薬草狩がりにでかけたものだそうですよ。
大池っていうの。」
私はすぐ山の上にある、空ばかり映っていて、すこしも濁ってない青い水底を考えましたが、そこにも、やはり魚なんぞが河や潟かたのように住んでいるのか知しらと思って訊ねました。
「魚はいるの。
うしろの川にいるような魚が。」
「いえ、魚は水があまり冷たいんでいないんですて、おられないんですて、そのかわり赤いいもりがおるんだって。
いやね、いもりなんて。」
私は即座に蛙のような奇体な、長ぼそいいもりを考えましたが、まだ腹の朱あかいのを見たことがなかったので、そういう朱いのが実際にいるものか知らと思いました。
「たくさんおるの。」
「なんでも、そのお池のなかに、大きな石があるんですて、その石がちょうど傘のように、表面うわべは広がっていて、五六人も乗れるが、底の方はすぼがっていて、そこにたくさんのいもりがおるんだそうですよ。
朱いのがその石のまわりを、誰もこないときにまるで小さい人間の裸のようにちょろちょろ泳いでいるんだそうですよ。
人間がちかづくと、ずっと底の方へかくれてしまって、なかなか浮き上ってこないんだそうですよ。」
姉はそういうと持前もちまえな上手な口調で、だんだん話しつづけるのです。
どういうものか、私は私の姉の話をきいていると、話してくれることがすっかり目の前にはっきり浮んできて、まるで本統ほんとうの実景を見ているような気がするのです。
それほど話上手な姉のことゆえ、手で真似をして見せたり、美しい眉をしかめたり、または、わざとその大きい黒い瞳をいっぱい開いたりするのです。
「その石がね、池のまんなかにあると言ったでしょう、だからその石の上へ乗るときは柴しばの浮橋を渡ってゆくんですと――ほらお池のふちなどによく水草が生えているだろう、ああいう柴草がそこのお池の岸に、いっぱいに水の上まで這はって繁っていて、ひとりでに浮橋になっているんだそうですよ。
それが十年も二十年も経っているので、ほとんど人間がこさえたより最もっとがっしりしているんで、踏んだって蹴ったって大丈夫なんですって。」
姉はそこで話をきると、跼しゃがんで私をも前に座らせ青い名なし草を抜きながら、それを手でむしっては話しつづけました。
「けれどもその浮橋の上に乗ると、池水がじくじく蹠あしのうらに沁しみてそりゃ冷たいんですて。
だからその浮橋の下は深い池だということがわかるでしょう。
ところどころに穴が開いていて、そこから杖をさし込むと、一間けんもある杖がらくに沈み込んでしまうんだそうですよ。」
私はそこまで黙ってきいていましたが、思わず口を挿しはさみました。
「じゃその穴から落ち込んでしまえば、それきり沈んでしまうわけね。
そんなに深いとすると。」
「そうだとも、実際はどれだけあるか分らないんだけれど、岸の浅いところだって泥沼のようになって落ちこむと、足掻あがきもできないそうだよ。
ずいぶん怖いところでしょう。」
姉は、そう言って医王山の方へ、ふいに顔を向けました。
私もそのふしぎな山と、山の上にある青い池のことで、益々ますますいろいろなことを考えられてくるので、しずかに山をながめていました。
山というものは、じっとしているようで、そのじつ、眼を凝らしてながめていると、なんだか少しずつ動いているような気がしてならないものです。
わけても大きければ大きいだけ、なお、むずむずと目にわかるかわからないかの程度で、まるで息をしているような気がするものです。
二人がそうして眺めているうち、うす甘い春早はるばやに咲く杏あんずの花の匂いが、庭の垣根の方からそよついて流れてきました。
私は、春になると何より杏の花の匂いをかぐのが楽しみです。
「山にはどんな花が咲くの、杏なんぞあるの。」
「いえ。」
姉はちょいと考えるようにして、
「躑躅つつじなぞはみんな紫なの、百合もそんな色をしているの、それから岩照いわてらしや、雪の下などという花があったり、ずいぶん珍らし花があるんですて、町の方ですっかり桜が散ったころに、やっと山の麓ふもとの桜がほころびかかり、それが一日ずつ山の頂きへ向って咲きのぼるんですて。」
私は、そこにも人間が住んでいるのかと訊ねた。
もしそういう処ところに人間がどうして住めるものだろうかと考えたからです。
姉は頭を振って、
「その山の下には住んでいるんだけれど、山の中にはいないの。
考えたってわかるでしょう。」
「わかるけれど......。」
「夏になると雑草が繁って登れないんだそうだよ春ならいいんだけれど......。」
そのとき何処から流れてきたか、温かい白い雲がちぎれちぎれになって、山の頂へ、ふうわりと懸りました。
まるで小さい帽子のように、ふしぎなまだ私の見たことのない国の上の秘密をつつむように、いく片となく浮きよせてきました。
私は毎日うしろの磧かわらへ出ては、ぼんやりその山を眺めてはいました。
姉の話してくれた山の上の、青い古い池の色まで、佇たたずんでいる私の目にひとりでに浮んで見えてくるような気がしました。
何なんでも非常に静かで、雑林にとりまかれたような池の水の上に、まるで木の葉のそよぐような小波さざなみが立ち、それが池の沖へ向ってちょろちょろ目高めだかのように走ってゆくさまや、そういう静かな日に限って浮んでくるれいの、赤いいもりが水底からすうと水面へ目がけて泳ぎあがってくるさままで、いつも頭の中へ浮んできました。
それが何ということもなく不思議で珍らしく実際にありそうもないことのように思われてしかたがなかったのです。
山の色は、うすい藍色のときもあり、鼠色だったり、あるいは一面に牛乳色ちちいろをした靄もやの中から紫の頭をあらわしたり、ほんの雲の間にちょいと聳えてみえたりしていました。
それを見るごとに、私はちょうど眩惑めまいのするようなすうとした気もちで、その山の奥の方にある池のことを倦あきることなく考え込んでいるのでした。
姉は庭へ出るたびに、私の姿を見つけ、私のぼんやり佇んでいるのをうしろから脅かしながら近づきました。
「あの池についておもしろい話があるんだよ、お前知っているの、知っていちゃ詰つまらないだろうから。」
姉はわざとそう私をじらして置いて、そばから離れようとしました。
「知らないんだよ、話して下さい。」
「ほんとに知らない?。」
姉はいつものくせで、私の右肩に手を置き、れいの杏の香においのする草場にある木の根に跼かがみ込みました。
ちょうど春の初まりかけたころで、芽生えのなかで茜色をしたのや紫ぐんだのや、そういう雑草の萌きざしがまるで花のようにつん出て、あるものはかなり高く伸びていました。
私は再度姉にせがむと、姉は、れいの雑草の頭をぽつんぽつんと抜きながら話しつづけました。
「いつかお話したときに、ほら薬草狩りと言ったでしょう、あれはずっと昔のことで、お城下の薬舗店きぐすりやが毎年春の終りになると、みんな隊を組んで、あの医王山へ登るんですよ。
つまりお山開きのようなものなんだね。
そんなときは、みんな揃って御馳走をこさえ、そして山神に供える鏡餅だとか供米くまいだとか珍らしい初実りの野菜とかを積んで出かけるんです。
ちょうど町を朝まだ暗いうちに発って、長い五里の山道を駕に乗ってその麓まで行くんです。
そこへ着くころは、もう夜が明けてしまって、すぐ靄につつまれた山の麓の家々が、やっと起きたばかりなんです。」
姉は、その医王山の麓というのは、戸室山にはさまれた小さい村であることを言添えながら、
「そのお山開きについて面白い話があるんです。
城下の古い木薬屋きぐすりやで、丁字屋ていじやというのがあるでしょう。
あそこの家も毎年お山詣りに行んだそうです――ある年の春、例年のようにみんなで、あの大池のふちで、持って行った重箱を開いたり酒を飲んだりしているうちに、その一行にいた娘さんのお蝶が急に見えなくなったのです。
そのため皆は大騒ぎをして捜してみたけれど、更にわからない。
谿合たにあいや雑林の奥なぞにもいない。
とうとうその日も暮れたので、皆はその晩麓の村のお寺に泊って、翌日も捜し廻ったのだが、何処にもそれらしい影すら見えなかった。」
姉は更に話し続けました。
「父親はある晩、更けてからそっと娘の室へやを窺うかがっていたのです。
露がやや木の葉の上に光るようなころになると、娘の室の障子が、すうとひとりでに開かれました。
ふしぎなこともあるものだと、よく気をつけてみると、紛うかたもない娘が半身を障子のそとへあらわし、庭を覗いてみましたが、きゅうに音もなく庭へ下り立ったのです。
しかも素足のままです。
ああいうからだをして能よく歩かれたものだと思える位でした。
どうするのかと見ていると、こんどは擬宝珠ぎぼうしゅのかげへ跼んで、すうと、蒼白い、まるで麻のように晒された手を伸しました。
はて、何をするのだろうと見つめていると、その白い手が擬宝珠のかげへつッ込まれると、ふいに、その陰草から一疋ぴきの赤蛙が飛び出しました。
すると娘の手は、その飛んだ跡へ跡へと趁おって最後に押えつけました。
そうすると、こんどは、あたりを見廻すとその手をすういと自分の口元へもって行きましたが、赤蛙はいつの間にか娘の口の中へ呑み込まれたのです。
そのとき娘はまるでこれまでに見たことのないような凄い、眇目すがめのような微笑をもらして、うまそうにその赤蛙を呑み込んでしまったのです。
それを見ていた父親はまるで身体中がしびれるような恐ろしい悪寒を感じました。
娘がそういう恐ろしいことをしようなんて、一度も考えなかっただけに、その驚きようも一層いっそう強かったのでした。
見ているうちに、ブルブル顫ふるえるような身体を一そう鎮めてながめているうち、娘は幾疋となく赤蛙をつかまえると食べてしまったのです。
そうして庭をあちこち歩きながら、草さえあると手で掻きさぐっていました。
その歩いているうちの陰気な音と言うたら、ゴムの上でも歩くような、音のないような変な遠い音なんです。
そういう三十分程がすむと娘はまた音もなくすウと自分の居間へ這入はいってしまったのです。
そのとき何んだか障子ぎわへ姿が消えるとき、父親の目には細長いものの影がずるずる、湿っぽい暗い音をさせながら、すぐ、障子の中へきえてゆくのが、見えるともなく目にはいったそうです。
そのとき身体中に森しんとしたある不思議な寒さが、骨の髄まで徹とおってくるような気がしたそうです。
しかもその最後に見た障子の内のかげはまるで鼠の尾のような細い、鋭い影だったそうです。」
私はそのときあまりの不思議さに、よくそういう時に誰でもするように、姉の顔を唯ただ凝視しつづけていました。
うららかなかげが、杏の梢こずえをすべり、わたしどもの跼んでいる足もとへも、すらすらこぼれており、そのためなお一層青い芽生えがその色を冴えさせておりました。
「その影はいったい何んだろう、鼠の尾のようなものが......」
私はおもわずそう問いかけると、姉は、わらって、
「あとでわかるから黙って訊いてお出いで、それからその父親が毎晩のように、娘が庭へ出て蛙をたべるのを見たそうです。
きまって晩になると、こっそり室から脱け出すのだそうです。
――けれども何しろ自分の娘のことであり、そういうことを世間の人に話するわけに行かないんで、黙っていましたが、相渝あいかわらず娘の方ではそんな父親が監視していることなぞ知らないものですから一向いっこうおかまいなしで毎晩庭へ出るのだそうです。
ある時、父親は不意に考えついて、娘の部屋の庭へ向っている障子ぎわに、金気のある錆びた棒を引いて置いたのです。
父親は心で考えたことがあるため、そう遣やってみて娘が何かに憑つかれているのか、それとも例の山中へ行ってから気が狂っているのか、そういうことを確めるためにそうしたのです。
ところがその晩障子が開いたには開いたが、その金の棒のあるために、きゅうに部屋の中へ這入って行ってしまって、再またと出てこないんだそうです。
なぜというに、金気のあるものは憑きものに嫌われるからです。
その翌晩もそうやって置いておきましたので、娘はやはり室のなかで、ざらざら変な音を立てて歩いているような様子だったが、出てくる様子とてもなかったのです。
その翌晩も、そのまた翌々晩もその金の棒を引いておいたのです。
――ところが反対に娘はこのごろになって以前よりずっと瘠やせ、ずっと食べものを食べなくなったのです。
ある日、父親がそばへ行くと、父親の顔をしみじみ眺めていましたが、不意に、あの鉄の棒をとって下さい、そうでないとわたしは息苦しくて仕方がありません、お願いですから鉄の棒を取りのぞいて下さいと父親にたのみました。
父親も、娘の正体が何んであるか分らないけれど、可愛想な気がしてその晩鉄の棒を取りのぞいてやりました。
すると、娘はいつものように静かではなく、きゅうに障子をあけると、庭へ飛び出し、それきりその晩から姿を見せませんでした。
丁字屋では大騒ぎをして捜したけれども、どこにも娘らしいものがいませんでした。
父親は、あまりの不思議さに、ぼんやりと一日考え込んでいました。
――娘のいた部屋へ行ってみても別にかわりはありません。
ただ娘のいたころよりも、れいの、青くさい匂いがなくなっていたのです。
何気なくその布団を引いて見ますと、小さい蛇が黒々と一匹、皿巻きをしていました。
父親は驚いてそれを趁ったが、その蛇はふいに床から庭さきへ辷すべり出し、それきり何処へ行ったか見えなくなったそうです。
が、ふしぎにそれから後も、いつも土蔵の日南ひあたりや、屋根の上や、娘のいた居間のそばなどに、どこから出てくるのか、れいの、黒々とした一匹の蛇が、まるで影のように皿巻きをしていたそうです。
それゆえ、みんなは何日いつとなくその蛇を趁わなくなり、却ってその蛇にしたしみを持つようになりました。
小さい胸紐のような蛇は、白い腹をし、わりあいに、優しい目をしては丁字屋の人々をながめてはいました。
父親は、ときどきその蛇を掌のひらの上に乗せ、じっと日南の温かいところで、何となく、寂しくその円まるい輪になった蛇をながめておることなぞありました。
もちろん、蛇は何んにもしません、蛇もこいしげに父親の掌の上で、その可哀かわいらしい頭を持ち上げ、父親の顔をしげしげ眺め込んでいたりしていました。」
姉はそう言い終えると、私はきゅうに訊ねて見ました。
「では娘さんはどうしたのだろう、どこへ行ったのだろう。」
「それはね。」
姉は言葉を切ってから、
「ほらあのお山へ行ったときから、きっと蛇につかれていたんですよ。
それゆえ、ずっとさきに死んでいたのかも知れない――だから今でもあのお山には、そのお蝶さんのお墓が建っているそうだよ、その池のまわりにね。」
私は、きゅうに、医王山の方をながめました。
今日はくっきりした紫色に晴れ上っていました。
姉も同じいように、山の方をながめました。
私は不思議な話が頭のなかに生きているため、その医王山が一つの生きもののようになって見えました。
底本:「文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子」ちくま文庫、筑摩書房
2008(平成20)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「室生犀星童話全集 第3」創林社
1978(昭和53)年
初出:「金の鳥」
1922(大正11)年4月号
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2013年8月11日作成
2013年10月11日修正
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入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。